亡国前夜(最終回)―マッカーサーこそ日本民主制の癌

これまでのあらすじにして総集編

 昨年の衆議院選挙の前から、本日の参議院選挙次第で日本は滅びる、と言い続けました。
 日本人のほとんどが忘れているでしょうが、昨年今頃は
「自民党でなければ誰でもいい!漢字が読めない麻生首相はイヤ!」
「マニフェストに基づく政策本位の選挙が日本にも根付いた。」
「官僚の言いなりの自民党ではなく、一度は民主党にやらせたほうがよい。」
「ようやく選挙による政権交代が起き、日本にも二大政党制がはじまった。」
などと狂奔していました。
 

 日本人は何と歴史に学ばない民族であろうか、いや、そうなってしまったのか。
 その問題意識が「亡国前夜」もそうですし、この「砦」をはじめたきっかけです。

 昨年の民主党による政権交代のみならず、戦後民主主義そのものが外見的民主制にすぎないのではないか。歴史を通じて検証しようとしたのが、「亡国前夜」シリーズです。

 自民党は、池田勇人のような卓越した才覚を持ち、かつ憲政の常道を守った総理大臣を輩出しました。しかし、その池田の残した高度経済成長の遺産を食い潰してきただけでした。
 では長くなぜそれができたのか。政権を担う能力のある責任政党が自民党しかなかったからです。
 日本社会党は、陛下の野党では決してありませんでした。
 民主制は、陛下の与党だけでなく、陛下の野党が存在しなければ成立しません。
 決して政権を担当しようとはしないが、拒否権だけは行使する社会党の存在が自民党を腐敗させました。
 平成不況でもはや自民党が存在価値を喪失した時に登場したのが、日本社会党の後身である民主党です。
 ところがその民主党は陛下の与党でも、国家本位の政党でもありませんでした。
 この期に及んでも、外国人参政権など日本を解体しようとする法案の提出を虎視眈々と狙っています。
 もはや国家本位の政党はどこにもなくなりました。

「しょせん、日本人には欧米のようなデモクラシーは無理なんだよ」
「しょせん、アメリカに戦争で負けて民主主義を教わった国だしな」
「しょせん、マッカーサーに12歳の子供とか言われた民族だしな」

 よく聞く自虐です。
 本当でしょうか。

 最終回、時は遡ります。

 憲法の条文に書いてあることさえ守れば何をしても許される。
 田中角栄、竹下登ら闇将軍は日本国憲法を守って、日本の民主制を破壊しました。
 このような外見的民主制の起源はもちろん、日本国憲法制定時です。

 ただ昭和二十年代は、自由民主党という巨大与党は存在しません。
 保守二大政党政治を目指していました。

 幣原内閣が総選挙で敗北すると、第一党の自由党総裁の吉田茂が首相になりました。
 吉田内閣が総選挙で敗北すると、片山哲を首班とする社会党連立内閣が成立しました。
 片山内閣は、社会党左派の造反で総辞職に追い込まれます。マッカーサーは連立与党の芦田均民主党に組閣を命じます。
 芦田内閣は、昭和電工汚職が発覚し、反対党の自由党に政権移譲しました。種々の陰謀はありましたが。
 吉田内閣は、占領軍の妨害を撥ね退け、解散総選挙を断行し、国民の支持で長期政権を築きました。

 鳩山一郎は日本民主党を結成し、社会党と提携して吉田内閣を倒しました。
 そして自由党と日本民主党が合同し、自由民主党が結成されます。

 さて、ここで日本の民主主義の阻害要因は何でしょうか。二つあります。
 一つは、日本社会党です。
 保守二大政党が政権をめぐり争ううちに、社会党と手を組んだほうが勝てる、となってしまいました。規範そのものが失われました。数の横暴を止める規範に力がなくなりました。

 もう一つは、マッカーサーです。
 マッカーサーと占領軍こそ、日本民主制の敵です。

 総選挙で自由党が勝利して総裁の鳩山一郎内閣ができそうになると、鳩山を忌避していたマッカーサーは衆議院議員の資格を剥奪し、総理大臣になる資格そのものを奪いました。
 片山哲が総理になった理由は「そいつはクリスチャンだから別に社会主義者でも構わないだろう」との不真面目な理由でした。
 片山内閣が社会党の内紛により崩壊するや、「憲政の常道」により政権移譲を要求する野党総裁吉田茂の主張を無視し、連立与党内の民主党芦田均内閣を築かせました。
 芦田内閣が下野を決断すると、吉田茂への引退を強制しようとしました。

 戦後民主主義の寄生虫である日本社会党を育てたのもマッカーサーです。
 日本を民主化するなどと言いながら、占領政策に都合が良い政治家のクビをすげかえ続けた元祖闇将軍こそ、ダグラス・マッカーサーです。

 では当時の日本人はこれに手をこまねていていたのでしょうか。

 吾々は白洲次郎という超人を知っています。
 白洲次郎がいなければ、今ごろ日本人は日本語を捨て、英語をしゃべっていたでしょう。
 身も心も植民地人として。

 吾々は石橋湛山という英雄を知っています。
 石橋湛山がいなければ、日本人は奇跡の戦後復興をできなかったでしょう。
 今ごろ日本人は三等国民のまま、身も心も貧乏な民族に貶められていたでしょう。

 他にも、知恵と勇気を振り絞って占領軍の横暴に抵抗した日本人はいます。
 松本烝治、金森徳次郎、佐藤達夫、清水澄、佐々木惣一、美濃部達吉、齋藤隆夫、三木武吉、池田勇人。。。彼らのすべてが勝利者ではありません。しかし、彼らが占領軍の言いなりになっていたら、日本人は永久に奴隷民族となっていたでしょう。
 アメリカの奴隷ではありません。
 アメリカ本国で相手にされないような救いようのないおちこぼれアメリカ人の奴隷です。

 たとえ負けるとわかっていても戦った歴史がある。
 戦った歴史があれば再び立ち上がることができる。
 幾多の亡国の憂き目をみた民族が、正しい歴史を自覚することによって再生しました。
 イスラエルもポーランドも、一時は国名ではなく地名に過ぎなかったではないですか。
 むしろ、一度も歴史から消えたことがない国が、世界で日本だけです。

 では歴史は超人や英雄だけがつくるのでしょうか。
 そうではありません。
 むしろ平凡な人間、駄目人間が動かす時もあります。

 この亡国前夜を締めくくるにあたって、駄目人間が巨悪に立ち向かった挿話をご紹介しましょう。
 その究極の駄目人間とは三木武夫。
 彼の駄目人間ぶりは亡国前夜に限らず散々これでもかと強調してきました。
 しかし、駄目人間でもいざという時に救国の愛国者になることもあるのです。


 時は昭和二十三年九月。
 片山社会党に続き、芦田民主党の連立内閣は崩壊寸前でした。
 しかし、マッカーサーと側近のケージス大佐は反対党の吉田茂に政権を渡したくない。
 そこで、三党連立の残る一党である国民協同党党首の三木武夫を呼び出し、政権を担当するよう命令しました。
 齢、41歳。もしこの時に政権を受けていればどうなったか。衆議院464人中29人の少数政党を率いているに過ぎません。
 何もできずに終わったかもしれない。それでも史上最年少総理です。
 このような状況で政権に飛びついた政治家がどれほど多いか。

 その筆頭が三木の弟子の海部俊樹です。
 自民党最弱小派閥30人の、しかも領袖でもないのに、竹下登の一声で河本敏夫を裏切り、最後は野垂れ死にしました。
 海部を評して、党人派の雄である田村元は言います。
「三木さんは我々の敵だったが、常に茨の道を選んだ。それに比べて海部さんは天麩羅の匂いのする方になびいた。」

 マッカーサーは二度に渡り三木を呼び出したが総理の座を蹴り、その後26年間も少数派の悲哀を味わうことになります。

 ここで重要なのは、三木の台詞です。

アメリカにデモクラシーがあるな

ら、日本には憲政の常道がある!


 我が国では国民の意思を無視して最高権力者を選ぶことは許されない。
 権力者が交代するならば、総選挙で国民に審判をあおがねばならない。
 それが戦前日本人がたどりついた日本流民主制です。
 憲法の条文がすべてなどではない。
 ましてや一人の権力者の意思で何をやってもいいことにはならない。

 マッカーサーは三木の理屈をまったく理解できませんでしたが、三木に横暴を押し付けることはできませんでした。あの「神より偉い」と言われた権力を振るったマッカーサーが、駄目人間の三木武夫に屈した瞬間です。

 この砦で何度も強調している、言葉の力です。

 戦前の憲政の常道を知る日本人は、マッカーサーが唱える似非民主主義の胡散臭さを知っていたのです。別にアメリカ人のおちこぼれに習う必要などないのです。
 マッカーサーや占領軍をアメリカ人の代表とすること自体が、アメリカ人に失礼です。
 オウム真理教を指して日本人を語るようなものです。

 しかし、マッカーサーの民主主義をありがたがる、精神的奴隷・植民地根性人の多いことか。

 もし日本を見下した外人や欧米かぶれに出会ったら憲政の常道を英語に直してもらいましょう。正解は?

Normal Constitutional Practice!!