亡国前夜(5)―恐怖の超権力者

これからの三回シリーズ、特に歴史の知識がなくても、細かいところは「そんなものか」くらいで流すか、興味があれば調べるかしてください。大事なのは、歴史を語りながらも今に通じる論理を語っているところです。「今、我々が社会に不安を抱いている。その正体は何なのか。」その問題意識だけで良いです。知識は気にしないでください。

 「田中角栄こそ戦後最大の政治家」「その後、数々のミニ角栄が出現した」などと、今の日本の問題を考える上で錯覚をおこさせる間違った歴史認識がはびこっているので、これは正さねばならないと思ってきた。そこに今の日本を考える上での本質はないのである。田中角栄が歪めた「憲政の常道」を跡形もなくした政治家、しかもいびつな形で超越的な権力を掌握した政治家のことを我々は忘れていないか。

 本題の前に、田中角栄伝説の根拠は「高度成長期の政治家」である。時流に乗った政治屋でありその手腕が卓越していたのは確かだが、日本人を豊かにした功績において池田勇人以上に位置するとそれは過大評価になるはずである。ところが、池田は専門家の評価こそ高いものの、一般的な人気は、しかも自称専門家間の評価でも田中の方が圧倒的に高い。はっきり言えば、高度成長に対する貢献度で言えば、高度成長計画そのものを立案した下村治と池田に使われた田中角栄のどちらをあげるべきか、などという議論すら必要かもしれない。

 私も個々の事実を取り出して、田中の功績や実力を評価するのは吝かではないが、「では、他と比較して」という冷静さを失えば、かえって彼のすごさがわからなくなるのではと思っているのである。少なくとも、「戦後最大の政治家」でないことは確かであろう。

 佐藤栄作、田中角栄、竹下登の三人はそれぞれ自民党最大派閥を支配し、十年間の権力を維持した。では三人の内、握った権力が一番弱かったのは誰か。これは明らかに田中である。佐藤の場合は、政敵が次々と病死するという幸運に恵まれたのが長期政権樹立の最大の理由である。逆に田中の場合は、常に政敵が強かった。三木武夫・福田赳夫は生涯のほとんどにおいて政敵であった。失脚してからの復権に関しても、福田の敵失に助けられている面も大きいのである。田中の権力の絶頂は三木武夫の実質的引退以降である。それでもあの手この手を使いながらも最弱小派閥の河本派(三木派の後身)に抵抗勢力としての存在感を許しているのである。色々とデータを挙げて田中派の権力が弱かった点の立証は可能であるし、田中の主観的な心象風景は愛人にして金庫番が残した『佐藤昭子日記』でわかろう。むしろ田中のすごさは、自民党内反主流派や東大出身官僚(特に最高裁と検察など司法官僚)などをついぞ統制できないにもかかわらず、次々と総理大臣の首を挿げ替えながら延命措置をはかる手腕にあろう。それが哀れを誘うし、国民にとっては大迷惑な話であったが。

 では、竹下登はどうか。その「戦後最大の政治家」の派閥を丸ごと乗っ取ったではないか。しかも周到な計画を立てて極めて合理的に。十年間も田中は警戒心を丸出しにしていたのであるが、それをも乗り越えて「憤死」同様の状態に追い込んだのである。田中が佐藤派に対して同じことをしたときは、佐藤は「派閥をやめる」と公言しており、影響力は末期症状であった。田中は権力の絶頂を維持しようとしていた時期である。ついでに言うと、同じ事を竹下に仕掛けた小沢一郎は結局は敗れている。政争術において田中が竹下に優越している点を私は知らない。竹下は運にすら頼っていないのである。

 竹下登こそ戦後最大の権力者である。そして現在の日本の国難を導いた大悪人である。その罪、藤原道長や徳川家斉に匹敵しよう。私はこの三人を「恐怖の超権力者」と呼ぶ。

 藤原道長・徳川家斉・竹下登の共通点は三つ。一つは、武力を用いずに、無敵の権力を握った点である。道長の場合は、散発的に火付け強盗で鬱憤晴らしをする勢力は存在したが、そこまでである。「天皇家を乗っ取ろう」などと言い出さない限り、彼の権力は無敵であった。徳川家斉は「世の中をよくしよう」などという気がまるでないので、現状打破の際に生じる摩擦が存在しない。天保の改革を用意していた改革派も、家斉の死まで待たねばならなかった。

 二つは、この三人、何の政治的功績もないのである。竹下の消費税などはどんなに国民生活に影響があっても、行政事項であって政治ではない。家斉の文化文政の経済文化発展も彼の功績にはできないであろう。何もしていないのであるから。道長に至ってはそれらに匹敵する内容すらないのである。三人とも、権力の保持以外に何もしたいことがない、だから権力は強まる、という、「見た目の繁栄期、実は危機が忍び寄っている時代」に特有の政治家なのである。

 佐藤栄作や田中角栄は少なくともやりたいことがあって、その政策の終了や失敗が求心力の低下に繋がった。田中に至っては「裁判で無罪になりたい」と、慢性的に弱点を抱えているのである。ところが竹下はそのやりたいことがないのである。政策がどうなろうと、求心力が低下しようがないのである。

 三つめは、安全保障体制が崩壊しているのである。藤原道長の時は「刀伊の入寇」によって大宰府が女真族に荒らされたが、政権は何もしなかった。徳川家斉の時は「フェートン号事件」により長崎が英国軍艦に荒らされたが、やはり何もしなかった。竹下登の時は不審船やらテポドンやら色々な不審物が北からやってきたが、いずれにおいても総理大臣を支配していた闇将軍は何もしなかった。そして三人とも彼らの権力はまるで揺るがなかった。国を思う改革派は沈黙を強いられたのである。

 さて、竹下内閣はリクルート事件で世論の猛反発を浴びたが、一年も誰も倒せなかった。政官界のすべてを制圧していたからである。自民党は田中闇将軍時代と違い総主流派体制で、竹下への挑戦者がいない。野党は懐柔されており、共産党まで本気で退陣要求をしていないのである。官界では検察のみマスコミへのリークという手段を通じて抵抗したが、内閣総辞職こそが竹下の反撃開始であった、とは研究の常識であろう。

 田中内閣は『文藝春秋』での暴露記事露出後数ヶ月で退陣に追い込まれている。次の三木内閣の手によって逮捕にまで追い詰められているのである。復権までには四年(少なく見て二年)かかった。

 竹下退陣後は宇野宗佑・海部俊樹・宮沢喜一が、十ヶ月空いて村山富市・橋本龍太郎・小渕恵三、すべて竹下の意向により総理となった。田中が遂にできなかった「自分の派閥から総理を出す」を二代も行っている。田中の場合、竹下がいつ派閥を簒奪するかという不安があったので、不可能だったのである。田中には竹下がいたが、竹下には裏切れるような政治家はいなかったのである。

 この間、金丸信や後藤田正晴が実力者としてもてはやされたが、彼らが竹下に優越した根拠はなんだろう。金丸は大蔵省には何の影響力もなかったし、後藤田は議員に子分すら一人もいなかった。むしろ彼らは竹下権力の両翼では?

 そして竹下登が権力を握った一九九〇年代の十年間をすべてのエコノミストは何と呼ぶか。「失われた十年である」。つまり、今の格差社会は竹下登が作ったのである。これ以上の説明が必要であろうか。一つだけ述べよう。それが今回の主題である歴史歪曲である。

 我々は竹下登に向けるべき批判を小泉純一郎に向けていないか。

 確かに小泉改革には、経済政策に限定しても言いたいことは多い。しかし、経済政策に限定すれば、なおさら小泉改革は竹下の平成不況へのカンフル剤の役割だったのでは?ならばカンフル剤が正しかったか否かではなく、根源まで遡って問題を分析すべきであろう。

 ここまで述べてまだ世間では、「角さんは大物、竹下など小物」などと言われかねないが、この砦ではそういう声は無視して次回二回分は予告。(タイトルは変えますが内容はかなり前からできています。)

「竹下登はどのように憲政の常道を歪めたか」

「保守を捨てた自民党が敗北した歴史的必然―竹下登の恐怖支配」

 田中で二回やったので、竹下では三回やります。このカルテこそ必要でしょう。日本人が「角さんの時代は良かった」などと間違った幻想を抱いていては処方箋が出てきようがないので。

 現在の政局は「竹下登の後の権力を誰が握るか」なのである。今こそ考えるべき政策は「竹下登が残した歪をどう正すか」である。

 藤原道長の後には後三条天皇から源頼朝に至る世界史に残る大変革を成し遂げた。この壮大な社会変革は簡単に語りつくせないが、後三条天皇の「粛清なき宮廷改革」や源頼朝の「簒奪なき構造改革」など、世界史にほとんど類をみないのである。

 徳川家斉の後には、天保の改革こそ失敗したが、改革の機運は止まらず、遂に幕末維新へと突入した。その後の明治維新の奇跡はご存知の通りである。

 では竹下登の後には?

 我々、生きている人間がやらねば誰がやる?

 そのためにも、(つづく)